『歴史の真相』第十二回 ~信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何か?⑤~
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■ 質問
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信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何でしょうか。
(東京都・Tさん)
■回答
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(承前)
さて、いよいよこのご質問の最後。家康のキリスト教政策にたどりつきました。
秀吉はバテレン追放令を発した時に、布教は禁じるが貿易は従来通りにするという方針を取りました。南蛮貿易なくしては日本の経済や軍事に支障をきたすからです。
家康もこの方針を受け継ぎ、「禁教、貿易」をめざしました。しかも東南アジアとは離れている関東において南蛮貿易を開始するために、マニラやメキシコを支配しているスペインと接近しようとしました。
マニラとメキシコを結ぶ北太平洋航路は黒潮に乗って関東沖を通過するので、この船を三浦半島の浦賀に呼び込むことで貿易に参入しようとしたのです。
そのために家康はマニラのフィリピン総督との交渉を重ねますが、なかなかうまくいきませんでした。スペインは、「布教、貿易、侵略」の三位一体の政策で世界の植民地化を推し進めてきたので、その政策を変えようとはしなかったのです。
フィリピンの臨時総督をつとめたロドリゴ・デ・ビベロは、「日本を武力によって征服することは困難なので、キリスト教徒にしてスペイン国王に従うようにするしかない」という主旨のことを記しています。
家康はこれに対して、新教国(プロテスタント)であるオランダやイギリスへの接近を強めていきました。彼らには「布教、貿易、侵略」の意図はなく、貿易だけに応じる姿勢を見せたからで、一六〇九年にはオランダ、一六一三年にはイギリスに、平戸に商館をおくことを許しています。
こうした両にらみの政策を取ることでスペインに譲歩を迫ろうとしたのでしょうが、これが両勢力による激しい競争を生み、中傷合戦にまで発展しました。
しかも、ポルトガルの支援で日本布教の主導権を握っていたイエズス会と、スペインの後押しでやって来たフランシスコ会やドミニコ会の宣教師たちも、相手を追い落とそうと陰謀をめぐらし始めました。
そうして一六一〇年に起こったのが岡本大八事件です。
きっかけは同年に有馬晴信がポルトガル船マードレ・デ・デウス号を長崎港で焼き打ちにしたことでした。家康の近臣、本多正純の家臣だった大八は、晴信にこの恩賞として旧有馬領を回復させると偽り、多額の賄賂をせしめたのです。
ところがいつまでたっても沙汰がないことを不信に思った晴信が正純に問い合わせ、大八の詐欺であることが判明しました。
この事件に多くのキリシタンが関わっていたことや、生糸の貿易を仲介することでイエズス会が莫大な利益を得ていたこと、そして家康の近臣にまでキリシタンがいて、機密情報を宣教師に流していたことが発覚し、家康は一六一二年にキリスト教禁止令に踏み切ったのです。
行き場を失った多くのキリシタンたちは大坂城に移り住み、これが二年後の大坂の陣の遠因になったのでした。