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歴史の真相

『歴史の真相』第十一回 ~信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何か?④~

Date:2018/09/27

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■ ​質問
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信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何でしょうか。     

  (東京都・Tさん)

 

回答
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(承前)
このご質問への答えが長くなっているのは、キリスト教への対応は彼ら三人の政治、外交、通商の違いを象徴的に表わす問題なので、しっかりと書いておく必要があると考えてのことです。ご容赦いただき、今しばらくお付き合い下さい。


秀吉はスペインの求めに応じて明国出兵を決断し、文禄元年(一五九二)四月に第一陣を渡海させましたが、すでにこの頃にはスペインの力は失われつつありました。
一五八八年、ドーバー海峡でのイギリス海軍との戦いで、スペインの無敵艦隊は百数十艘の艦船の約半数を失う大敗北を喫したからです。
そのため日本の明国出兵軍を支援するどころか、東アジアにおける拠点を確保できるかどうか分からない窮状に陥りました。


ヴァリニャーノは当然これを知っていたはずですが、イエズス会の影響力や発言力が低下するのを恐れて、秀吉にこのことは伝えなかったものと思います。
それゆえ出兵軍はスペイン海軍の支援を得られず、兵糧、弾薬の補給ができなくなって敗退したのですから、秀吉政権の外交の失敗がこうした結果を招いたと言えるでしょう。
私がこのように考えるようになったのは、佐賀県立名護屋城博物館で『肥前名護屋城図屛風』を見たからです。
講和のために明国の勅使が訪れた日の様子を描いたこの絵の中に、宣教師の装束をした南蛮人の一行が同行している様子が描かれています。


イエズス会の宣教師が日本と明国の講和に同席しているのは、彼らがこの出兵に深く関わっていたからだとしか考えられないからです。
これに対して家康は、スペインと敵対していたイギリスやオランダと接近していきます。それは親スペイン政権である豊臣家を倒すためばかりでなく、もはやスペインの時代は終わったと見切ったからでしょう。


その象徴的な事件が、慶長五年三月にオランダの貿易船リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着したことです。
この知らせを受けた家康は、リーフデ号を浦賀の港まで廻航させ、積荷をすべて自分のものにしました。こんなことが出来たのはリーフデ号が家康の注文によってオランダから積荷を運んできたからではないでしょうか?
その積荷は一説によると、鉄砲五百挺、砲弾五千発、連鎖弾三百発、棒火矢三百五十本、火薬五千ポンド(約二千二百七十キロ)だったそうです。


家康は半年後に迫った関ヶ原の戦いに向けて武器、弾薬をオランダから調達しようとしていたのでしょう。
リーフデ号に乗っていたウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステンを、家康が後に外交、通商の顧問としていることも、両者の親密な関係をうかがわせます。