西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第29回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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■ 第29回 梵我一如
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サイフを奪われないように高く手をさし上げ、貧しい子供たちを追い払おうとしている自分の姿が、天の目で見えた。
その瞬間、自分は所詮この程度の人間だと思い知らされた。
本当なら子供たちに金を与えるのが、人としてあるべき姿だろう。だが金が惜しいばかりに、彼らを無慈悲に追い払おうとしている。
そう思った途端、得体の知れない歓喜が突き上げてきた。
そしてなぜか、人間は在りのままで尊いのだと実感した。在りのままで尊いのなら、人間の生き方に善悪優劣はない。
そのことが分かったせいか、自分が縛られている価値観の正体がはっきりと見えた。
役所を辞めたら生活が維持できなくなるという不安の背後には、金と地位と名誉を失うのが怖いという執着がある。
その奥には死ぬのが恐ろしいという感覚が隠れている。
金と地位と名誉にあやつられるのは、少しでも死から遠ざかりたいからなのだ。
しかし、人間が在りのままで尊いなら、生き方に普遍的な意味での善悪優劣はないし、幸福や不幸だと感じるのも欲心が見せる幻覚にすぎない。
(ならば人は、生きたいように生きればいい)
私は腹の底からそう感じた。
そして坂口安吾が『堕落論』で説いてるのもこのことだと分かった。
こうしたインスピレーションを得たのは、ヒンドゥー教の梵我一如(宇宙を支配する真理である梵と、個人を支配する我は同一だということ)
の教えが充満しているインドを旅したためだが、東洋大学のインド哲学科で学んだ安吾は直感的にそのことを理解し、
「堕落」という諧謔的な言葉を使って論を張った。
私は十八歳の時にその論に衝撃を受けて作家を志し、十年後にインドでその本質に触れて作家として生きる決意をしたのだった。
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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年2月20日付
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