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歴史の真相

『歴史の真相』第十回 ~信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何か?③~

Date:2018/08/29

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■ ​質問
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信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何でしょうか。     

  (東京都・Tさん)

 

回答
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(承前)

信長が拒否した明国出兵の要求を受け容れ、イエズス会やスペインの後押しを得て天下を取った秀吉でしたが、九州征伐を終えた天正十五年(一五八七)六月十九日、筑前箱崎において突然バテレン追放令を発しました。

理由はいくつかありますが、一番大きかったのは、イエズス会の宣教師たちがキリシタン大名などを使って日本を乗っ取ろうと企てていると、秀吉が疑うようになったことでした。

 

追放令を発する理由について、秀吉は次のように語っています。

「バテレンどもは西洋の高度な知識を根拠とし、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は一向宗よりはるかに強固である。このように巧妙な方法を用いるのは、地方の国々を占領し、やがては日本全体を征服させんとするためであることは明らかである。キリシタンとなった大名や信徒は、バテレンどもに徹底的に服従しているのだから、余に対して反逆するように命じられたならことごとく従うであろう」

これは決して秀吉の妄想ではありませんでした。イエズス会はとの強固な関係を利用し、信者が入信する時に洗礼親には神に対してと同じように服従すると誓約させました。それゆえ秀吉が言うように、キリシタンたちが主君よりも宣教師の命令に従う可能性は充分にあったのです。

秀吉はこれを恐れ、宣教師を国内から追放することにしたのですが、キリスト教自体を否定した訳ではありません。追放令の前日に出した朱印状の第一条で、キリシタンになるのは「その者の心次第たるべき事」と、信仰の自由を認めています。

 

こうした措置をとったのは、秀吉政権の内部に多くのキリシタン大名(黒田如水、高山右近、小西行長など)や商人、信者がいて、彼らを敵に回せば信長のように自分も葬り去られるという危険を感じていたからでしょう。

それにイエズス会やスペインの協力がなければ南蛮貿易が中断し、軍事物資である硝石や鉛を入手できなくなるのですから、秀吉としてはこれ以上に強硬な策を取ることはできなかったのです。

これから四年後の天正十九年(一五九一)閏一月八日、秀吉はイエズス会の宣教師アレッシャンドロ・ヴァリニャーノと伏見城で対面し、バテレン追放令そのものを有名無実のものとしました。

 

表向きは伊東マンショや千々石ミゲルら天正遣欧少年使節を連れ帰ったヴァリニャーノの手柄を賞して対面したということにしましたが、実質的にはイエズス会との関係を修復し、以前の関係にもどったことを天下に示すためのイベントでした。

翌年三月に予定している朝鮮出兵のためには、イエズス会やスペインの協力を得ることが必要だったからですが、すでにこの頃のスペインは昔日の勢いを失っていたのでした。

 

(以下次号)