『歴史の真相』第九回 ~信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何か?②~
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歴史の疑問がなるほど納得!!
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■ 質問
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信長、秀吉、家康のキリスト教政策のちがいは何でしょうか。
(東京都・Tさん)
■回答
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(承前)
天正十年(一五八二)十二月。
ヴァリニャーノはスペインのフィリピン総督宛に次のような手紙を書いています。
〈これら東洋に於ける征服事業により、現在いろいろな地域に於いて、陛下(スペイン国王)に対し、多くのそして大きな門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところ大である。
これら征服事業は、霊的な面ばかりでなく、それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとって益する。
そしてそれらの征服事業の内、最大のものの一つは、閣下(フィリピン総督)のすぐ近くのこのシナを征服することである〉(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』より引用)〉
この文章によって、ポルトガルを併合して「太陽の沈まぬ国」になったスペインが、次の征服目標を明国と定めていたことが分かります。
しかもイエズス会とヴァリニャーノがその事業のために、日本を利用しようとしていたことも明確に記されています。
それゆえヴァリニャーノが信長との交渉の席で、明国への出兵を迫ったという推論が成り立つのです。
しかし信長は敢然としてこれを拒否し、イエズス会ともスペインとも断交することにしました。
そこでヴァリニャーノらは信長政権を倒し、秀吉政権を打ち立てるべく動きました。こうして明智光秀ら足利幕府再興をめざしていた連中に信長を討たせ、その光秀を秀吉が討って上前をはねる政権交代劇が起こったのです。
そのことについてヴァリニャーノは次のように記しています。
〈尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見て来た中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからである
しかしながら、シナに於いて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地を極めて重視する必要が(は)ある〉(同前)
明国征服のために日本は時とともに非常に益することになるとは、「出兵に反対した信長は死に、我らの言いなりになる秀吉が天下を取ったので、やがて大軍を送らせます」と言っているように、私には思えてなりません。
しかもその予言(?)どおり、本能寺の変の四年後、天正十四年三月に秀吉は、イエズス会のガスパル・コエリョと大坂城で会い、次のように明言しています。
〈日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この日本国を弟の美濃殿(秀長)に渡し、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。(中略)シナ人を征服した暁には、その地のいたるところにキリシタンの教会を建てさせ、シナ人はことごとくキリシタンになるように命ずるであろう〉(『完訳 フロイス日本史4』)
(以下次号)