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たかが還暦、されど還暦

西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第23回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2018/10/01

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■ ​ ​第23回 軽はずみの効用
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井伏鱒二さんに会っていただき、ソバまでご馳走になった私は、天にも昇るような気持で寮にもどったが、その頃職場は大変な騒ぎになっていた。
お宅の職員が欠席しているがどうしたことかと、研修所から問い合わせがあったのである。
欠席すると連絡していなかった上に、途中まで行きかけた電車の中で職場の先輩と顔を合わせていたので、事故にでも遭ったのではないかと方々に問い合わせてくれたらしい。

 

翌日事情を話すと、皆さん開いた口がふさがらないという状態だった。
「新人研修を無断で欠席したのは、君が初めてだ」
所長からお叱りを受けたが、先輩たちは妙に好意的だった。
「アベちゃん、気持は分かるが無断欠席は駄目だよ」
係長は苦笑しながら、反省会だと言って飲みに連れていってくれた。

誉められたことではないが、軽はずみな私の欠点は還暦になった今でも直らない。
人から誘われるとつい応じてしまうし、仕事を頼まれると無理だと分かっていても引き受けてしまう。自分の都合より相手の気持を先に考えるのは、狭い山里で長年暮らしてきたわが一族の性かもしれない。

しかしつらつら考えるに、軽はずみも決して悪いことばかりではない。
軽はずみによって常識からジャンプする経験を何度もしたし、そうせずにはいられない何者かが私をとらえて離さなかった。
あるいは自分に忠実に生きようとする思いが、常識の軛を引きちぎって別の世界に連れていってくれたのかもしれない。
こうした心のバネがなければ、私はもっと普通の生き方をして、人に迷惑をかけることも作家になることもなかっただろう。
「どうしようもない私が歩いている」
山頭火の句を口にしながらの行脚なのである。

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 西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年2月12日付   
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