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たかが還暦、されど還暦

西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第22回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2018/09/21

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■ ​ ​第22回 作家になるつもりかね
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ブロック塀に囲まれた井伏鱒二さん宅の呼び鈴を押すと、品のいい初老の奥さまが応対に出て下さった。作品を読んでいただきたいとお願いすると、
「時々そういう方が見えられますが、主人はすべてお断りしておりますので」
気の毒そうに戸を閉められた。
無理押しするわけにもいかないので、駅前の喫茶店に入って頭を冷やすことにした。このまま引き下がるのが礼儀だろうが、それにはいかにも残念である。

 

そこで昼過ぎにもう一度門を叩いてみることにした。
いかに大文豪でも、昼食の後にはくつろいでおられるだろうと思ったからだが、この作戦は功を奏し、対面を許していただいた。

 

井伏さんはトレードマークの丸めがねをかけ、着物の上に袖なしの綿入れを羽織っておられた。
三十枚ほどの短編を読んでいただいたが、腕組みをしたまま目をつむっていつまでも黙り込んでおられる。これでは埒があかないので、
「あの、いかがでしょうか」
恐る恐るたずねてみた。
「君は下手だね」
第一声は容赦のないものだった。
「でも、最初はみんな下手だったんだ」
そう言われて、太宰治が井伏さんに何度も無言のまま原稿を突き返されたというエピソードを思い出した。

 

「君は作家になるつもりかね」
思いがけない質問に、そのつもりで東京に出て来ました、と勢い込んで答えた。
すると井伏さんは、
「君、作家は儲からんよ」
つまらなさそうな顔でそうおっしゃった。
作品への感想はこれだけである。
だが私は、作家になるつもりかとたずねられたのは、才能があるからだと解釈した。その思い込みが、もっとも厳しい局面で私を支えてくれたのである。


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 西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年2月11日付   
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