西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第10回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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■ 第10回 父の宿題
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初めて見せてくれた戦時中のアルバムには、破壊された中山門(南京市の城門)の前で歩兵銃を持って立つ軍服姿の父が写っていた。
位は上等兵で、筋が一本入った軍帽をかぶっていた気がする。
父が属していたのは輜重部隊(兵糧、弾薬などの輸送を担当)なので、前線の実戦部隊ほど激しい戦闘に巻き込まれることはなかったらしいが、それでも敵が襲ってくることはあるし、水や食糧を確保するために村々に徴発(略奪)に入ることもあったようだ。
「あげな状況になったなら、普通の人間じゃおられん」
絞り出すような声で言った父に、それはどういう意味か、いったいどうなってしまうのかとは聞けなかった。八㍉映画の狂気のような戦ぶりが目に焼きついていたからである。
その時以来、ずっと中国のことが気にかかっていた。南京事件のことばかりでなく、一カ月間一人旅をしているうちに、中国や東アジアとの関わりの中で日本の歴史をとらえなければ、本当のことは分からないという思いを強くしたからだ。
漢字や儒教、文化や文明など、日本が中国から受容したものは数多い。ふるさとの先輩が教えてくれた、
「咲いた花を喜ぶならば、咲かせた根元の恩を知れ」
という言葉があるが、日本という花は、中国や東アジアという根元がなければ咲かなかったのである。
三年前に久々に北京、西安、敦煌の旅をした時、このことをまざまざと思い出した。
そして日中関係が険しさを増し、国内でも不穏な世論が形成されつつある今だからこそ、数千年にわたる日中関係を基盤とした相互理解をはかるべきだと思った。
阿倍仲麻呂の小説を書こうと決めたのは西安(昔の長安)にいた時である。遺唐使として唐に渡り、かの国の先進文明を必死で学ぼうとした彼の生涯を描くことは、父から与えられた宿題のような気がしている。
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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年1月23日付
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