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たかが還暦、されど還暦

西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第9回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】

Date:2018/06/01

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■ ​ ​第9回 父の戦地
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 田舎から都会へ人材を吸い上げる方法は、我らの頃は受験(進学)競争だった。その流れに乗って私は中学から久留米高専に進み、作家になる夢を追って東京へ出た。
 昭和二十年前後に生まれた兄たちは集団就職で都会に出たし、大正三(一九一四)年生まれの父は二度徴兵されて大陸に渡った。

 父は実直で優しい人だった。貧しい農家に生まれ、農業のかたわら炭焼きや土木作業の日傭取(ひようと)りをして家計を支え、母と二人で五人の子を育て上げてくれた。
 両親と旅行した経験など一度もないほど貧しい暮らしぶりだったので、父が海外に渡ったのはおそらく徴兵された時だけだったろう。

 だがそうした話をしたことは、私が家にいた頃は一度もなかった。
「実は俺(おり)も、南京に行っとった」

 ぼそっと言って当時のアルバムを見せてくれたのは、私が中国への取材に出かけ、南京での出来事を語った時だった。
 もう二十数年前のことだ。秀吉の朝鮮出兵を東アジアからの視点で描こうと考えていた私は、北京、南京、上海、厦門(アモイ)、香港と一ヶ月の旅に出かけ、南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」をたずねた。

 南京事件については今でも日中間で見解の違いがあるが、日本軍が南京を占領した時におびただしい犠牲者を出したことはまぎれもない事実である。その状況がどんなものだったかを知ろうと紀念館に入り、あまりの凄惨(せいさん)さに胸がつぶれる思いをした。

 そこで少しでも供養をしていただこうと献花料のつもりで寄付をしたところ、寄付名簿に名前を書くように求められ、当時の八㍉映画があるからと事務室に案内された。どうやら日本軍が撮影したものを没収したらしい。中国人職員に囲まれてその映画を見せられた上に、「あなたはこの事件についてどう思うか」とたずねられた。

 その時のことを父に話すと、俺も南京に行ったという言葉が返ってきたのである。

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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年1月22日付    
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