西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第3回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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■ 第3回 残った言葉
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「バサラ」や「徒然」のような京風の言葉が、奥八女のわがふるさとで使われるようになったのは、南北朝時代に都からやってきた南朝方の人々が、戦に敗れてこのあたりの山岳地帯に住みついたからである。
九州における南北朝の戦乱のハイライトは、なんといっても筑後川の戦いである。
正平十四(一三五九)年八月、懐良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じた南朝方四万は、大宰府を本拠地とする足利方六万と筑後川の北岸で戦って大勝した。
今も駅の名として残る「宮の陣」は、懐良親王が布陣した場所だし、大刀洗の地名は南朝方の勇将だった菊池武光が血刀を洗ったことに由来する。この二つの場所を見ただけでも、数に劣る南朝方が筑後川を背にして決死の覚悟で勝負にのぞんだことがよく分かる。
この戦に勝利した南朝方は、以後十三年にわたって九州を支配し、元や高麗とも活発な交易をしていたが、やがて足利幕府が強大化するにつれて、奥八女から大分県、熊本県にかけての県境の山岳地帯に追い詰められていった。
そしていつの日か幕府と北朝を倒し、都に返り咲く日を夢見て山奥での苦しい生活に耐え抜いてきたが、ついにその夢を果たせないまま六百数十年後の今日にいたっているのである。
私の母の実家である橋本家の祖は、懐良親王の後継者である良成親王が九州に下向された時、太刀持ちとして従ってきた。
それゆえ集落の名を剣持と言うと、小さいころから古老たちに教えられてきた。
方言にも都の名残りがまだまだあって、今ではもうはっきりと思い出すことも出来ないが、『太平記』を読んでいると古老たちの語り口と全く同じ表現が出てきて、思わずにやりとさせられることがある。
「知っとりばしするごと」(知ったかぶりをするの意)の、ばしもそのひとつで、『平治物語』に「敵に頸ばしとらすな」という用例がある。
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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年1月14日付
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