大分合同新聞寄稿 / ピカソ『ゲルニカ』
※事務所代表 森のfacebookより転載
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
大分市「宗麟公まつり」の記事を大分合同新聞からお送りいただいた。連載では大友宗麟公への負のイメージを払拭すると共に、大航海時代の大波に扉を開く先駆けとなった英傑の物語を描き上げた。
安部は迫害の象徴ともいえる「切支丹・キリシタン」という言葉から、ザビエルやアルメイダが自らの信仰を「クリスタン」というポルトガル語の発音に回帰する事を提案した。人々が矜持を持ち高らかに戦乱を生き抜いた時代があったのだと語った。又、読者投稿欄へ「心踊った宗麟の海」と題し嬉しいコメントが寄せられていた。部員にとって新しい出発点となる作品になるだろう。
この話は今まで誰にも語ってはいない。部員にもである。長年ポケットに仕舞い込んだせいか、記憶に判然としない場所や場面が多々ある。間違い勘違いは笑ってご容赦願いたい。
先回お話しした「ゴッホの手紙」を読み上京して約20年後、夢の扉が突然開いた。ピカソの「ゲルニカ」を無性に見に行きたいと思った。ただ、その切っかけは覚えていない。大した理由など無かったのだろう。抱えていた仕事をスタッフに預け、12月半ばから約1ヶ月ヨーロッパ走破のスケジュールをコーディネーターの知恵を拝借し組みたてた。
ともかく「ゲルニカ」を見に行くから始まった旅の最初の都市は、スペイン・マドリッドだった。成田からANAでフランクフルト、エール・フランスでマドリッドの空港へ降り立った時には足もとがふらついていた。思い切り両手を広げ初めてのマドリードを吸い込んだ事は覚えている。タクシーにトランクを積み込んでマドリッド・リッツホテルへ向かった。リッツの威力はたいしたもので、運転手の姿勢と共にMr.がSir.に変わった。コーディネーターから聞きかじっていたとおりだったのには驚いた。プラド美術館に近くマドリッドの象徴的なホテルとお願いすると「リッツ」だという。微かに覚えているのは歴史を感じさせる広々としたロビーとフロントの重厚なたたずまいだったこと。そして、忘れられないのは扉を人が閉めるモノトーン映画そのままのエレベーターだった。そのエレベーターが途中で音もなく止まりポータが大声で「japones ・・」と騒いでいた。エレベーターに閉じ込められた初めての日本人になったと後ほど聞いた。
先が思いやられる、そして楽しい旅になる予感がしていた。
次回に続く・・
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【スタッフ後記】
私は宗麟公まつりの様子を直接見に行くことは叶わなかったのですが、
このような寄稿を目にすると、本当に安部の描いた「宗麟公」が皆様に愛されていたのだと実感出来ます。
次の機会ではぜひ、大分を訪れて宗麟公の聖地巡礼を行いたいです。