熊谷守一
※事務所代表 森のfacebookより転載
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3月22日
-東京国立近代美術館 再訪-
熊谷守一展を再訪して、既に1ヶ月経つ。等伯忌や無声映画祭、さらには金沢探訪など幾つも記憶が新しいうちに投稿したい事柄が続き今日にいたった。
熊谷守一氏を仙人と呼ぶ人さえいるという。
あえてモリカズ氏と呼ぼう。
彼の言葉「・・どうせ明かりなんてものは、そういうものですから」
「ヤキバノカエリ」長女、萬の遺骨を持ち帰る自分と家族。悲しみも苦悩も抜け落ちサラサラとした空気が漂っている。死生の先を淡々と歩く今を描き、あるがままをあるがままに観ているモリカズ氏の視線を感じる。
盆に乗ったタマゴは今にも転がりそうに不安定なバランスで描かれ、心の奥で手を添えたくなるような不安な心を起させる。だが、モリカズ氏のことだ、「ゆで卵だよ」とでも言いだしそうな気もしている。
「向日葵」笑っている子供たちのように温かい。「熱海」波立つ海でさえきれいにそぎ落とし、陽に映る暖かな熱海の海を感じさせる。「雨滴」・「稚魚」・「鬼百合に揚羽蝶」などモリカズ氏の視野の中でそぎ落とされ剥ぎ取られた「対象」だけが描かれている。それが何とも美しい。
私が一番気に入っている作品「宵月」夕暮れの紺碧の空が闇を深めるまえ、樹と木の葉は影となって黒く沈む。だが、宵月の光に影の輪郭が光はじめる。その境界を紅い輪郭線が月の柔らかな光を浮き上がらせている。
仙人モリカズ氏の変遷の末の明かりの先には、あるがままを、あるがままに見ている自らの光だけを描いていたようにも感じていた。
できうれば私も、こんなわがままな仙人になりたいものだ。
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【スタッフ後記】
シンプルに描かれているからと言って、絵が内包している情報量は多く
見たものの切り取り方によって表情を変える絵であると感じます。
東京会場での開催は終わり、4月14(土)からは愛媛にて開催されるとのことです。