西田幾多郎記念哲学館・落日
※事務所代表 森のfacebookより転載
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2月25日
落日 展示室には、いくつか思考カードが来館者用によういされている。その中にあったカードを手に取った。
「有るものは何かに於いてである」
背面に出典が掲載されていた。
有るという意味は存在という意味ではなく、何かは何かに立脚するに於いて「有る」のであり、何らかの関係性を持たなければ生まれないのだ。
私という「参観者」は「哲学館」に降り立つことに於いて、他の「参観者」共々「参観者で有る」と言えるが、哲学館」を車窓から眺める私や通りすがりの人々は「参観者」ではあり得ない。
「有る」という概念の散歩を暫く試みていた。
展示室を出て預けたカバンを取り出しに向かう途中「空(くう)の庭」という展示がある事に気が付いた。
卵の空間の底、階下の脇に穿たれた通路がある。
閉じたドアの向こうには、暗い通路の先に落日の余韻が空からこぼれている。コンクリートの高い壁面は、真直ぐに伸びて空を四角に切り取っている。
正方形の空間の中心に立ち、空を見上げていた。何ものにも寄らない私の存在という意識と、孤立そして孤独という負の圧迫とが心の内にあった。
腕を組み何がしかの時をへて、微かに音が聞こえる事に気が付いた。足もとのから水が滴る音が微かに聞こえる。水琴窟が設えてあったのだ。
私の体から滴り落ちる水滴が想念のあくと共に、張り詰めた水面を波打たせ、水面の果てに消えるのを思い浮かべていた。
「空(くう)の庭」を訪れるのは孤独の時を勧めたい。水琴の音も自らの滴りも、心の内にしか届かない。
正面からエントランスへ戻るドアを抜ければ、陽は既になく、コンクリートの思考の要塞と昇りくる階段エントランスがライトアップされていた。光は陰影をさらに深くしているようにも感じていた。
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【スタッフ後記】
私は哲学に関して一人考える時間を持ったことがなく、
このような場所でこそ思考が深まるのであろうと、ただ漠然と感じました。
静かな場所で一人考える時間を作りたいものです。