西日本新聞連載エッセイ『たかが還暦、されど還暦』第1回 【オフィシャルサイト限定コンテンツ】
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■ 第1回 つれずれなるままに
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今年でいよいよ還暦の節目をむかえた。
まだまだ若いつもりでいたが、気がつけば六十年の長きを生き、六十一年目に突入したのである
人生の景色が少しずつ変わりつつあることは、 息子や娘が結婚したり孫が できたり、
友人知人の入院や他界の 知らせがくるようになって痛感している。
昨年母校久留米高専の同窓会に行き、 学生時代の友人たちと会った。
卒業以来初めて会う友人もいて、しばらく誰か分からない。
しかし互いに名乗りあったり、思い出話にふけったりしていると、いつの間にか学生時代の顔がはっきりと浮かぶから、友人とは有難いものである。
鬼籍に入った友人も何人かいると聞くと、やがては自分の番だという覚悟をしておかなければという気持ちになる。
健康で長生きしたいとは誰しも願うことだが、不老長寿の仙薬などないのだから、静かに死を受け容れる以外に術はない。
「住み果てぬ世にみにくき姿を持ち得て、何かはせん。命長ければ恥多し。長くとも、
四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」
南北朝の動乱期を生きた吉田兼好は、『徒然草』の中でそう記している。
住み果てぬ世とは、永遠に存在することなどできない世の中という意味であり、
めやすかるべけれとは見苦しくないということである。
人間はどうせいつか死ぬのだから、長々と生きて老醜をさらすより、四十ばかりで死んだほうがカッコいいよね、兼好はそう言っている。彼の頃の四十は、現代の六十ばかりに当たるだろう。
ちょうど還暦の年に、このような連載のご依頼を受けた。
兼好ほどの力量はないが、「心にうつりゆくよしなしごとを」思いつくままに書かせていただきたい。
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西日本新聞「たかが還暦、されど還暦」2015年1月12日付
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