ふりさけ見れば 上巻
遣唐使は日本の朝廷からどのような命を受けて中国に向かったのか――
2012年の直木賞受賞作『等伯』に続く、安部龍太郎氏の日本経済新聞連載小説は、対外的に「国家」としての土台を築き上げた8世紀・奈良時代の日本を、ユーラシア大陸・東アジアの中に位置づけて描いたスケールの大きな作品。安部氏の新たな代表作といっても過言ではない。
日本とユーラシアを結びつけるのは、唐で科挙に合格し玄宗皇帝の側近にまで出世したたぐいまれなる日本人・阿倍仲麻呂、そして仲麻呂とともに唐に渡り当時の大唐帝国のすぐれた文化・政治制度を内政に移植した学者にして政治家の吉備真備。唐からは、玄宗皇帝と楊貴妃、安史の乱を起こした安禄山、大詩人の李白や杜甫など、日本でも多くの逸話が知られる人物が続々と登場する。ついに帰国できなかった阿倍仲麻呂が日本の朝廷から帯びていた重大な密命とははたして……
唐の宮廷では周辺の遊牧騎馬民族国家との間の摩擦により、また日本の朝廷では壬申の乱や白村江の敗戦以来の皇統の対立により、どちらの国にも常に一触即発の権謀術数がうごめく。国や民族を越えて複雑に利害がからみあった権力闘争は時に内乱を引き起こし、昨日の友はきょうの敵となる。
タイトルは古今和歌集にとられ百人一首でもおなじみの「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」から。この和歌のたおやかで優美なイメージで阿倍仲麻呂と遣唐使を捉えるとさにあらず。謀略に次ぐ謀略、007のジェームス・ボンドばりのスパイアクション映画を思わせる息もつかせぬ展開に、一度手に取ると、上下巻900ページも一気読み必至である。
当時、吉備真備らが持ち込み移植した律令制度はその後いまに続く日本の法律の中に色濃く残る。日本の皇室の儀礼にもこの頃移植したものが少なからず存在し、鑑真和上の招聘による仏教の興隆など、「国家」としての土台はまさにこの頃に築かれたものである。チベット、新疆ウイグルなどとの中国の緊張関係は1300年前から連綿と存在していた。日本と中国の関係、日本と朝鮮半島の関係、中国と朝鮮半島の関係は古代から幾多の戦乱を経て、連綿と今に続くものである。歴史時代区分としては日本の古代を描いた小説ではあるが、ここが「東アジアの中の日本」の視座の原点かもしれない。
書籍分類: 単行本
価格: 2000円(税別)
発売日: 2023/7/24
カテゴリー: 歴史・時代小説
出版社: 日本経済新聞出版