『歴史の真相』第一回 ~関ケ原では何故、豊臣秀頼は西軍の大将として参戦しなかったのか?~
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歴史の疑問がなるほど納得!!
あなたが疑問に思う歴史上の何故?どうして?
に直木賞作家・安部龍太郎がお答えします!
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■ 質問
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映画『関ヶ原』を観て疑問に思ったのですが、何故、豊臣秀頼は西軍の大将として参戦しなかったのでしょうか?(東京都・Kさん)
■回答
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上映中の「関ヶ原」を観てきました。
司馬僚太郎さんの原作を活かした作り、豪華な配役人の渾身の演技、息もつかせぬスピーディな展開、迫力ある映像、当時の合戦を出来るだけ忠実に再現しようとする努力。
すべてにおいて、今の日本映画界が作れる最高の水準だったと思います。
この作品が成功しなければ、歴史大作映画は向こう十年立ち直れないと感じましたが、順調に観客動員が伸びているようで嬉しいかぎりです。
さて、ご質問の件ですが、確かに豊臣秀頼がなぜ出陣しなかったかは、この合戦の最大の鍵です。
通説では石田三成は豊臣家を守るために挙兵したとされていますから、その根回しが豊臣家内でできていたとすれば、秀頼は当然出陣しなければならない立場でした。
もし出陣していたなら、合戦は豊臣家対徳川家の構図になり、豊臣恩顧の大名たちはこぞって西軍に馳せ参じたでしょう。小早川秀秋の裏切りも起こらず、三成らは圧勝したはずです。
これを防ぐために家康が取った策は、「秀頼さまに対し、弓を引く気は毛頭ない」と主張しつづけることでした。これは豊臣対徳川の戦いではなく、豊臣家内部の重臣同士の争いだと位置付けたのでした。
秀頼や淀殿がどちらの主張を是とするか。出陣するかしないかで勝敗が分かれる局面になったのですが、この判断をする際に豊臣家は大きな足枷をつけられていました。
それは秀頼が現職の関白だったことです。
朝廷は承久の変の敗北以来、式家の対立や戦いには介入しないという方針をとってきました。
どちらかに加担して敗けた場合、朝廷の存続さえおびやかされる。
それよりは局外中立の立場を守り、勝った方に権威をさずける役割に徹した方がいいと考えたのです。
それゆえ関白職にありながら合戦の当事者になることはできなかったばかりか、在任中は洛中を離れることもできなかったほどでした。
秀吉が肥前名護屋城に出陣する際に関白職を甥の秀次にゆずったのは、こうした掟があったからです。
「それなのに秀頼さまを出陣させるつもりか」
家康は朝廷に対して強烈な脅しをかけ、秀頼の出陣を止めるようにあらゆる手立てを使って工作しました。
これに屈した朝廷は、関ヶ原の約一ヶ月前、八月十六日に広橋兼勝と勧修寺晴豊を勅使として豊臣家に下し、出陣の不可を伝えました。
それについて西洞院時慶は日記(『時慶卿記』)に次のように記しています。
〈天下無事ノ義、禁裏仰セ出サレ候。広橋大納言、勧修寺宰相ノ両人、大坂ヘ明日差シ越エラルト〉
この時点ですでに戦の大勢は決していました。
合戦直前になって西軍から離脱する者が続出したのは、秀頼の出陣なくして三成の大義は成り立たないと見切ったからでした。